2. 教育は教養にならないが、学習は教養になる不思議

AIナビゲーター

「変化の時代にあって、地を制するのは『学び続ける者(Learners)』である。
『学びを終えた者(Learned)』は、もはや存在しない過去の世界に適応する美徳しか持たない。」- E・ホッファー
「教養とは、他人の書いたものによって自己を規定しない能力である。」- サルトル

情報教育と情緒教育

「教育」には二通りあります。フレームワークがある教育とない教育です。前者は学校や組織などの教育であり、後者は家庭や常識などの社会教育です。社会を維持するために、法律は教育の対象ではなく、規律を遵守する社会的な義務になります。

「教育をする」は教える側の視点からの表現であり、受動的な表現では「教育を受ける、教育される」になります。教育を一方向の情報移転のように述べられることもありますが、多くの著名な教育者は自発的な学習、双方向の学習を推奨しています。

「教育」とは学習方法の形態の一つであったのが、人口増加時代に効率的に学習を行う教育制度を指すようになりました。人口減少時代には、過去の教育制度を見直さなければならないにもかかわらず、制度の縮小で対応しようとしているのが現実です。

「場・人・情報」を1ヵ所に集約し、同じ時間に効率よく行う教育制度は、ICT(情報通信技術)が発達した現代から未来にかけて、AIでも可能な「情報教育」と人間しかできない「情緒教育」を分離するようになるのは時間の問題かもしれません。

なぜ、学ぶのか

教育制度が変わっても教育がなくなるわけではありません。過去の教育制度が受動的な教育だったのに対して、現在は能動的な学習に変わりつつあります。このように主体が教える側から教えられる側、すなわち学ぶ側に変わってきました。

しかし、教育制度が変わっても、教える側、学ぶ側の考え方はすぐには変わりません。教える側には指針や方針があっても、学ぶ側には「どのように学ぶのか、何を学ぶのか」を自ら決めるためには、「なぜ学ぶのか」ということから始める必要があります。

生まれたての新生児は、本能的に「生きるために学ぶ」ことを身につけています。乳児期には「習う」よりも「倣う」ことにより学びます。乳児期の教育は生活に順応するための学びです。幼児期に自我が芽生え、心理的発達が始まります。

幼児期には生活環境の中で学ぶと同時に、周囲の年長者の影響を大きく受けます。生きるため、生活に順応するためだけではなく、直接的には生存や生活に関係のないことも周囲から教えられ、自ら学び、知識として情報を蓄積していきます。

文化としての教養

ラジオもテレビもない時代は、直接的な対面での学びか、間接的な文字による学びが主でした。この2つの学び方が、情報の発信者と受信者の関係を「1対N」の関係と、「教育」という学び方の基盤になったと考えられます。

その後、放送により、学び方は対面による聴講と非対面による読書から、さらに非対面性を強めるようになりました。学ぶ内容も情報発信者側に主導権があり、どのように学ぶかの選択肢は増えても、何を学ぶかの選択肢は増えたとはいえませんでした。

さらに学ぶ機会が増えたのは、マスコミュニケーションの時代になってからです。このころから「教育」と「教養」を分けて使うようになってきました。教育という情報の移転から、教養という情報の理解に変わり、同じ情報でも複数の理解が生まれてきました。

同時に情報を発信する時点で、異なった理解として発信することで、教養性を高めるという情報の転移が行われてきました。これらは、それぞれの時代の文化として扱われ、教育を文明として、教養を文化として扱うようになったと考えられます。

何のために学ぶのか

受動的な「教育」は過去の論理の上に思考を深め、論理を重ねることで情報の質を高めてきました。能動的な「学習」は、自分の理解を基に、広範な知識を重ねることで、新たな論理を導き出してきました。「教育」と「教養」の違いは視点の違いとも考えられます。

視点の違いは「どのように学ぶか」「何を学ぶかの違い」ではなく、「なぜ学ぶか」の理由、目的の違いにあると考えられます。さらに他者によるものか、自分の理解によるものかの違いにあります。では、これからの教育と教養はどのように変わっていくのでしょうか。

「教育」はAIを利用した過去の延長線上の未来を追求するために、より深く、より速く、より遠くを追求するようになるでしょう。「教養」はAIが作り出す未来への違和感をチェックし、その理由を「何のために」という具体性を持たせることになるでしょう。

教養が行うチェックとは、正解かどうかのチェックではなく、「創造性を伴っているか」になります。抽象的な目的ではなく、また数値で表す目標でもありません。ビジョンとして表すことができるかになります。そのためには必ず教養が必要になるでしょう。

すべての人が持つ教養

このように考えると、AIの回答が教養のある回答だとは、まだまだ思えません。それは感情や行動など非論理的、非線形的な理解をAIができないからではありません。単に「教養」を分析する方法がまだ発明できていないからだと思います。

「教養」には時代性が必要になります。過去には、神々に準えた教養もあれば、偉人、知識人、文化人のように特定の人が持つ才能を教養としたこともあります。本来の教養とはすべての人が持つことができるということを忘れてはいけません。