メインテーマ:なぜ、「学び」に卒業があると思うのか?~学ぶことは本能であり、欲求でもある

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「学ぶことの本質は、生きることそのものである」— ジョン・デューイ
「学びとは、私たちが一生をかけて行う呼吸のようなものである。それに『卒業』という終わりはない」- — フランシス・ベーコン

本能で行動する新生児

生まれたばかりの新生児は、DNAで受け継ぐ「本能」のみです。生まれて最初の行動は、自力で呼吸を行うことです。今までの胎内での環境とは異なり、初めて空気が体内に入ってくることを感じ、驚きの叫び声が「産声」です。

新生児は環境に順応するために思考したのではなく、本能的な行動を起こしたにすぎません。この本能的な叫び声が、周囲の大人には泣き声として聞こえ、抱きかかえて「あやす」という行動をとります。

新生児は産湯につかり、心地よくなったところで眠りにつきます。生まれて初めてとった「泣き声」という行動に対して、大人は「愛情」という感情を抱き、「あやす」という行動をとります。

このように、新生児は「行動」から始まり、一般的な「思考→行動」という順番ではないことがわかります。周囲の大人も「行動(聞く)→感情(愛情)→行動(あやす)」の順番になると考えられます。

行動から記憶へ

新生児の命の始まりは「行動」であり、その後に大人は「行動→感情→行動」となります。ここに「思考→記憶→行動」の一般的な順番はありません。

新生児は心地よくない状態、例えば、お腹が空いた、肌触りが悪いなど不快な環境になると「泣く」という行動に出ます。「泣く」ことによって不快な環境から快適な環境に変わることを覚えます。

これが最初の記憶になります。「泣く」という行動で環境が「変わる」ことを覚えると、次は環境を変えるために「思い出す」という記憶の循環が行われます。

新生児に「行動→記憶→行動」の流れができ、次第に視力や聴力が発達し、外部からの刺激に驚いては泣き、心地よい環境を求めては泣く繰り返しが行われます。

新生児から乳児期までに、周囲の大人はあらゆる仕草を見て一喜一憂します。乳児期までの行動は思考によるものではありません。それは大人が自ら行う「推測」という思考です。

模倣から媒体へ

乳児期から思考は徐々に始まりますが、言葉の前に大人の行動を真似し始めます。例えば、口を開ける動作を「あーん」と大人が動作で伝えます。

「子は親を見て育つ」通り、身近な行動を真似ることが成長の軸でした。しかし、この傾向は過去のものになりつつあります。現在は親の行動以上に、テレビやネットなどの情報環境が乳幼児期に浸透しています。

現在は親の行動パターン以上に、テレビやネットなどの情報環境が乳幼児期にも浸透しています。親の身体行動を覚えるのではなく、動きを伴わない「情報」そのものを記憶する機会が増えています。

アナログ媒体から、圧倒的にデジタル媒体での情報の影響が大きくなっているのが現実です。大人がスマホを手放さない現代社会では、乳幼児期の子供は大人とスマホを合わせて行動パターンとして覚えています。

このような環境下での思考は、かつての思考とは自ずと異なってきます。直接的なアナログ媒体ではなく、間接的なメディアを介在した思考の割合が多くなります。

教育は思考法の一形態

「思考」の方法は時代とともに変わっています。子どもの思考に限らず、大人の思考にも影響しています。もし、アナログ思考がデジタルの思考より優れていると考えるならば、それは現実の変容を事実として認めていないに等しいでしょう。

かつての「思考→記憶→行動」という流れは、思考を行動化することを意味していました。現在は、このような流れの他に「行動→記憶→思考」という流れが生まれ、行動を思考化するとも考えることができます。

前者の流れは、学校教育、企業教育、社会教育で多く見られます。後者の例の最たるものは、AIの急速な普及に表れています。行動のない「知識→思考」はLLMによって情報の再生産を「生成」と呼んでいるのです。

「教育」とは「思考法」の一形態であり、思考の大量生産には適しています。そして「学習」を「情報収集とパターン記憶」とすると現在のAIになります。

人間の「学習」とは行動を伴う学習です。情報社会になる以前は「見て覚えろ、感じて覚えろ」と言われました。行動なしには、見ることも感じることもできません。

卒業という区切り

乳児期までは行動が先行し、思考は後から追いついていきます。幼児期に入ると、見て聞いて覚えることから自発的に思考を行い、思考力が育まれます。

直線的なアナログの「思考→記憶→行動」の順では、最初の「思考」の質と量によって「記憶→行動」に限界が生じます。したがって、一定の「思考」を段階的に設定するために「卒業」という区切りを設ける必要がありました。

現在では、「思考」のスタート地点を状況に応じて切り替えられるようになっています。それは、メディアの発達がもたらした正の効果にあると言えます。

一方で、メディアの発達により、学習を知識情報の収集と処理と考え、難解な事柄や時間のかかる事柄の思考はAIに任せることも可能になっています。また、意図的な負の情報の生成も可能になっています。

人間の思考法と人工的なAIの思考法が交錯する時代において、「学び」の視点から、教育と学習、人間とAIについての関係性を常に考える必要が出てきています。