「人生後半戦」を拓く新たな視点:ポスト人生100年時代を豊かに生きるために

今回の記事から SimpleWize Part 2 になります

 

いつから人生後半戦になったと思ったか?

 

毎年誕生日になると思うことがある。また一つ歳を重ねると同時に、周りも一つ年を取っているのだという当たり前のことを思う。それにもまして、「周り」の風景が年々変わっていることに気づく。

学生時代はもちろん、友人知人は同年代が多かった。働き出すと自ずと周囲は年長者が多くなり、学生時代の友人知人は地元を離れ少なくなった。そして今は、友人知人自体が少なくなった。

いつのまにか年長者の友人は少なくなり、年長者の知人も友人未満の親しい人だけになっている。会社を離れた後は、年下の友人・知人のほうが多くなっていると、誕生日のたびに改めて思うのである。

そんな中で、友人知人から聞かれるのが、「いつから人生後半戦になったと思ったか?」という問いかけである。

 

人生後半ではなく「人生後半戦」としたのは

 

「人生後半戦」を理屈っぽく分解すると「人生+後半+戦」になる。

「人生」には2つの捉え方がある。1つは「一生、生涯」という意味で生存期間を表す。もう1つは「生き様、経験」という意味で生き方を表す。また両方の意味を含めて使う場合もある。

「後半」とは、物事の前半を過ぎてからの期間を指します。スポーツの試合でも、前半と後半に分かれています。「後半戦」という言葉には、これからの期間をどう過ごすかという意味合いが込められているのです。

人生も同じで、「人生後半戦」とは、人生の前半を過ぎてからの期間を指します。ただ残りの期間を表すだけでなく、これからの人生をどのように歩むかを考える時期だと言えるでしょう。

 

「戦」が意図すること

「人生後半」に「戦」という文字をあえて付け加えたことに違和感を覚える人もいるかもしれない。

「戦」の語源である「いくさ」は「的に矢を当てる」という意味であり、人生の置きかえると、目的や目標に向かうことを意図しているとも考えられる。

私が「人生後半戦」にこだわるのは、受け身ではなく能動的に生きてほしいと願うからだ。

「戦い」の本来の意味を踏まえれば、「人生後半戦」には、ポジティブなメッセージが込められていることを感じ取っていただければと思う。

 


 

人生後半戦が訪れたと正に自覚したとき

 

人生後半戦が何歳から始まるかは、人生を期間と捉えるならば死ぬまでわからないことになる。

人生を生き様と捉えるならば、喜ばしいときや悲しいとき、良いときや悪いときなど、様々な経験の積み重ねだと言える。

喜ばしいときや良いときを人生のピークと考えるなら、ピークからの下り坂になってから人生後半戦と考えることができる。結果的には人それぞれが「人生後半戦の始まり」は違うというのが結論だ。

「人生後半戦はいつから始まるか」よりも、人生の意味を考え、人生後半の意味を考え、その上で自分の人生後半戦の意味を考えることが大切なように思う。

人生には限りがあること、そして後半戦を迎えたことを自覚したときに、人生後半戦の始まりと言えるのではないか。そのときが訪れた時からこの言葉を胸に、人生の後半を歩んでいくことが大切だと思う。

 

「人生100年時代」というスローガンの終わり

 

「人生後半戦の始まりは人それぞれ」とお話ししたが、人生後半戦の基となる人生を、「人生100年時代」という言葉で表すようになって久しくなる。

確かに人類は長命になったし、社会が安定すればするほど人生を長期的に考える必要がある。「100年時代」は素晴らしいスローガンである。

ただし、地球上のすべての地域で、すべての人が人生を100年と感じているとは言えないのが現実だ。生きていくために必要な、例えば衣食住が満たされれば、人は「人生」を人生として考えることはできる。

たとえ安定した社会が実現したとしても、個人レベルでは誰もが人生100年時代を迎えられるとは言えない。病気やケガ、障害や事故で命を失う場合もある。

一方で、誰もが人生100年時代どころか、人生永遠時代を迎えられる兆しが見え始めている。肉体は滅びても記憶はデジタルとして残すことができるようになってきた。

 

デジタル時代における「人生」の再定義を試みる

 

「人生」という考え方を変えなければならない。古代のアリストテレスやキリストも、その言葉は今でも語り継がれている。人間による伝承が現在ではデジタルによる伝承に変わっている。

人体や脳を冷凍保存するよりも、デジタルにして保存することで記憶は半永久的に残すことができる。そして、文字だけではなくイメージや思考回路まで含めることが可能になれば、デジタル記憶の中で人生は続くことになる。

生存している間でも科学技術は進歩し、病気やケガは克服できるようになってきた。例えば、癌や認知症の治療の研究も進んでいるし、老化でさえボディスーツで筋力を補うなど実用化が進んでいる。

「人生」を生存期間や生き方として捉えるのではなく、人生を記憶として捉えるほうが適切な時代になりつつあるのだ。

生きているうちは長寿や生きがいが大切だが、誰もが記憶として残るようになれば「人生」に対する考え方が変わってくるだろう。

 


 

科学技術が拓く未来の人生観~記憶とともに生きる

 

「人生後半戦」の人生も後半戦も自分で決めることに意義がある。そのためには、過去の自分の人生経験、現在の自分の立ち位置、そしてに未来に向けての人生の予測を行わなければならない。

これら3つの人生に対する考察抜きにしては人生後半戦は考えられない。もし考え方がわからないなら、まず人生の考え方から学ぶしかない。自分に合った考え方を見つけるには時間がかかるかもしれないが、それでも感がるしかない。

自分の人生の過去、現在、未来について考えたら、未来の予測について見直してほしい。そうなる確率が高い予測なのか、そうなるかもしれない予想なのか、そうなりたい願望なのかのどれだろうか。

人生後半戦は残り時間との戦いである。いつか手に入れたい願望よりも、予想に近いほうがよい。予想を確率の高い予測にするには、自分の能力との戦いになる。

おわかりだろうか?、人生後半戦は時間との戦いと自分の能力との戦いになるのだ。もし、戦いに挑みたくなければ無理することはない。昨日と同じ生活を続けるだけだ。

 

人生後半戦へ向き合うために、まず始めることは?

 

人生後半を迎えても、人生後半戦には挑みたくないと考えるのは決して悪いことではなく、普通のことである。ただし、普通とは自分で考える普通ではなくなるかもしれないということも忘れてはならない。

人生後半戦をこれから迎える人は、年齢による人口の垂直動態と地域による人口の水平動態を常に見るようにし、その上で経済と仕事、生活を結び付けて人生後半戦を考えるべきだろう。

人生後半戦が正に始まる、始まったばかりという人は、人生対策関連の本を読むよりもAIに自分が思う人生後半戦についての質問を投げかけてみよう。AIの答えは現時点での社会の平均的な考え方が返ってくるはずだ。それから本を読んでも遅くはない。

もうすでに人生後半戦に入っている人は、すでに起きている未来なのだから、ポイントは絞られる。人間関係、健康状態、経済見通しの他に、デジタル社会に置いていかれないことだ。

自分自身の立ち位置を、65歳、75歳、85歳、95歳以上の分類を意識しながら人生後半戦を送ることになる。分類を必要以上に気にすることはないが、現実を見直す基準として考えて欲しい。

人生後半戦は人それぞれ異なるのは目に見えている。人生後半戦を豊かに、幸福に、生きたいと思うのであれば、まず考えることから始めよう。考えなければなにも始まらない。

 

人生後半戦への希望と現実のはざまで生きる

 

日本の近未来は、介護、食料及びエネルギー、政治不信問題、人口減少、対諸外国の問題で、介護以外の高齢社会の問題やAIの社会に対する影響は後回しになる可能性が高い。

AIや最新のデジタル技術は情報提供に有用だが、誤謬の可能性もあるため、書籍や人間関係からの知恵で補完することが重要である。

また、人生後半戦の過ごし方は個人によって異なり、特に女性は男性より長命であることから、女性の人生後半戦に対する考え方が変化しつつある。

充実した人生後半戦には、デジタル技術の活用と人間関係の維持、そして自己との向き合いが求められる。

これらの要素を適切に組み合わせることで、個々人に適した人生後半戦のあり方を見出すことができるだろう。