人生100年時代の実態(私の場合) ~ 「かしこく生きる」ための俯瞰力と柔軟性

人生100年時代と聞いて、どのようなイメージが浮かぶだろうか?

 

人生100年時代とは、誰もが100歳まで生きる時代と思ったら大間違いである。2023年の人口は1億2435万2千人だが、100歳以上の人口は8万7千人で0.07%に過ぎない。

2022年の平均寿命は新型コロナ禍の影響もあり、2年連続で下回ったが、それでも男性81.0歳,、女性87.09年と高度成長期と比べて10歳以上は伸びている。

だからと言って、人生100年時代とは言い過ぎではないかと、個人的には思っている。室町時代の一休和尚は87歳、江戸幕府の開祖である徳川家康は74歳まで生きた。時代環境は違っても長生きする人はいる。

 

人生100年時代だからと言ってなにかいいことがあるのだろうか?

 

答えは「NO」であるが、悪いことがあるとも言えない。同じことが起きてもいいこだと考える人もいれば、なにも感じない人もいる。人それぞれの感じ方次第だ。

20世紀は人類の寿命が最も伸びた時期で、19世紀までの人生50年時代と人生100年時代の大きな違いは、50歳からの人生の長さである。個人差はあるが、平均寿命まで生きると思っている人が多いだろう。

ここから私に個人的な話になるが、私は20歳になる前に病気で1年ほど入院し、この病気がきっかけで同世代の人より早く人生計画を立てるようになった。

 

人生計画とは一生の計画ではなく、ローリングを繰り返した

 

20歳で高校を卒業し、自宅療養をしていたので時間はたっぷりあった。まず人並みの体力をつけ、大学を卒業することを目標にした。人生の目的はただ「生きること」だった。

26歳で大学を卒業し、ことごとく就職活動に失敗し、健康診断のない会社に滑り込んだ。家庭の事情もあり、10年は同じ会社に勤め、仕事力を上げることを目的としていた。

この10年間で、仕事力を身に付けた以外に社会の仕組みも知った。ただし決して楽しい10年ではなかった。35歳で会社設立にかかわることができ、紆余曲折の末、貧乏くじを引いて40歳で社長になった。

ここまで5年毎に計画をローリングしながら、なんとか生きてきた。ここまでで人生計画に必要なのは、ローリングの他に「俯瞰する力」が必要だということだ。

人生を俯瞰することができなければ、目的も目標も持てず、生ききることもできない。

 

私の人生後半戦は40歳で始まり、人生計画はとん挫した

 

40歳になって社長になったのも束の間、41歳で社長を辞めた。そして一人会社を作り、改めて仕事を始めた。40歳と言えば、大企業では中堅である。一人会社の社長でも、社会的には若造でしかなかった。

健康状態に注意しながら仕事をしていたのだが、持病からの高血圧、からの狭心症になり、ステントを入れた。そのころの私は計画を遂行することが「生きること」だった。

今となっては馬鹿げたことをしたと思っている。一人会社から何人かの仲間と仕事をるようになったが、私が動けなくなったら、仕事が回らなくなるので無理をしてしまった。

案の定、狭心症は悪化した。気を同じくして、両親が共に介護状態になった。人生計画を大きく変えなければならなくなった。つらかった。情けなかった。

人生における「かしこさ」とは、人生計画の目的と目標遂行も大切だが、曲がり角に来た時にはスピードを落として方向転換することだと思い知った。

 

人間かしこさと人生のかしこさの狭間で、心臓が止まった

 

50歳で会社を止めた。両親の介護と会社の運営はできない、どちらを取るかという選択はなかった。細かなことをここでお話しするつもりはないが、介護とは自分だけでは決められないことが多々あるのだ。

介護が終わった直後に、私が倒れた。心筋梗塞で心臓が止まった。危なかった、と医者からも言われた。その後、心房細動も起こした。人生後半戦は余生どころか、余命との闘いになった。

油断すれば、人生は終わってしまう。かしこく人生をおくるためには、かしこい人間にならなければならない。「かしこさ」は「知性・理性・感性」を元に養われ、個性として築かれる。

「かしこさ=( 知性 + 理性 )× 感性 ⇒ 個性」というような関係になるのかもしれない。人間は知性や理性よりも感性に惹かれる。AIが人間味を感じないのも感性が感じられないからだろう。

日本の高齢社会が過去のような目に見える進展がないのは、社会的な感性の欠如かもしれない。高齢者層が他の年齢層の望みや痛みを感じられないことが原因の一つになっているのではないだろうか。

 

私の人生計画はまだまだ続く、明日をもしれない余命ではあるが

 

私の人生計画は白紙に戻った。残りの人生系計画を立てたくても、明日終わるかもしれない人生である。

私の生きる目的は、自分の子供の世代を含めて、次世代の負担にならないようにすることである。そのためには介護状態にならないように、日々の生活に注意を払っている。

目的は1つではない。2つめの目的は「かしこく生きる」ことについて、自分の子供に伝えたることだ。まだ伝え始めたばかりであるが、これからも続けていく。

3つめは、ない。本来なら、自分のために生きることを書きたかったのだが、どうしてもバケットリスト(死ぬまでにやりたいこと)になってしまう。これは目的ではなく目標だ。

このブログを続けていくうちにきっと見つかるような気がする。