人生後半戦を「かしこく生きる」ために(1):労働寿命について

「かしこく生きる」ための4つの課題とは

 

日本は、世界トップクラスの長寿国として知られています。しかし、超高齢社会が進むにつれ、経済の低迷、少子化の進行、技術力の衰退、学力の低下、さらに幸福度も他の先進国と比べて低くなっています。

人生後半戦を迎えた世代にとって、個人と社会全体に共通する4つの課題を提示し、考えていきたいと思います。

1.労働寿命についての議論を深める
2.国内基準と世界標準のギャップを認識する
3.国際化からグローバル化への意識改革を行う
4.安定・安全・安心と変化へ適応する

これらの課題は、決して他人事ではありません。私たち一人ひとりが当事者として、真剣に向き合っていく必要があります。

 

 

平均寿命、健康寿命、労働寿命

 

1.平均寿命は死亡時年齢の平均ではない

平均寿命とは、生命表を用いて計算され、0歳の平均余命を表す指標です。令和4年(2022年)簡易生命表によれば、平均寿命(0歳の平均余命)と75歳の平均余命は下記のようになっています。

平均寿命(0歳の平均余命):男性 81.05年 女性87.09年
75歳時点での平均余命:男性12.04年 女性15.67年
(75歳時点での平均寿命 男性87.04年 女性90.67年)

 

2.健康寿命は3年ごとの国民生活基礎調査で行う

令和元年(2019年)の国民生活基礎調査では、健康寿命と平均寿命は次のようになっています。

健康寿命:男性 男性72.68歳 女性75.38歳
平均寿命:男性 男性81.41歳 女性87.45歳

調査時の質問と回答で健康と不健康を判断して集計しています。

質問:「あなたの現在の健康状態はいかがですか?」
回答:「よい」「まあよい」「普通」⇒健康
___「あまりよくない」「よくない」⇒不健康

また、介護保険との関係で健康と不健康を判断する場合は、要介護2~5を不健康として集計する方法もあります。日常生活に支障があるかどうかが判断基準になっています。

健康寿命とは、平均寿命とは異なり客観的な年齢ではなく、調査への主観的な回答や介護認定による個人差が生じる結果から算出されています。

 

3.労働寿命は定年制度による恣意的な寿命

労働寿命という寿命はありません。就業規則などによる定年制によって退職年齢を労働寿命と言い換えた表現です。

現在では、高年齢者雇用安定法により、再雇用制度や勤務延長制度を含めて、定年を65歳を基準に定めている企業が多くあります。実際には、職場や職業を変えて、65歳以上でも働いている人が多くいます。

 

 

労働寿命が言いえて妙なこと

 

前述のとおり、労働寿命という寿命はありません。「寿命」とは人の生存期間や物の使用期間の限界を意味します。寿命は個体差があり、自然発生する状態です。

したがって、就業可能期間を意味する定年制を労働寿命と表すのは適していません。定年制のない企業や個人経営の事業は労働寿命がないかというとそういうことでもありません。

労働寿命を労働可能期間と置き換えると、職業や職種によっては、職務遂行上にリスクがある場合は、一定の条件の下で労働可能期間を決めなければなりません。

前回の記事で示した「かしこさ」を表すのに「脳力・体力・気力」という分け方をしました。例えば、認知症になると、体力と気力はあっても脳力が不十分なために労働に適さない場合が考えられます。

一方で、「多様性を重視する」という考え方もあり、脳力と気力はあっても体力(身体機能)が不十分な場合は、補助や支援によって労働可能になります。

労働寿命とは、本人が「脳力・体力・気力」を自己認識し、自ら労働寿命に達したと決めることはできます。そのような場合でも異なった職業や職種に変わるという選択肢も考えられます。

このように、個人の能力次第で労働可能期間は変わりうるものです。にもかかわらず、従来の発想では労働可能期間を「労働寿命」と呼び、定年制度と結びつけてきました。しかし、それは人間の多様性を無視した画一的な見方と言えるでしょう。

 

 

人間は労働力の提供だけではなく、労働に価値を求めている

 

高齢社会における労働力不足解消のために労働寿命を延ばすという考え方は、人間を単なる労働力の提供者として捉えているように思えます。

資本家が労働者を雇用し利潤を追求する、労働者は生活のために労働力を提供するという従来の考え方では、労働者は家畜や機械と何ら変わりありません。

労働は罰だという考え方や、日本人はワーカーホリック(仕事中毒)だという考え方もあります。果たして労働とは悪いことなのでしょうか。

肉体労働と知的労働という区別もありますが、どちらも労働であることに変わりありません。AIやロボットに仕事が奪われるという考え方もありますが、奪われるのは仕事ではなく、単なる労働です。

前回の記事では、「かしこさ」を「理性・知性・感性」に分ける考え方を示しました。これらの3つの力を使わない人間が行う労働はありません。

社会貢献 や自己実現のために労働を行うのでしょうか。憲法で 勤労の義務と権利が定められているのはなぜでしょうか。

前回の記事で示した「かしこさ」を「理性・知性・感性」に分ける考え方では、これらの3つの力を使わない人間が行う労働は存在しません。

社会貢献や自己実現のために労働を行う人もいれば、憲法で定められた勤労の義務と権利に基づいて働く人もいるでしょう。

人それぞれ働くことによって有形無形の価値を求めているのではないでしょうか。

 

 

労働の本質と意義

 

人間が労働を通じて求めるものは、単なる生活の糧を得るだけではありません。

例えば、医師や教師、作家、芸術家など、社会に対する貢献を通じて自己実現を図る職業は数多くあります。また、ボランティア活動のように対価を得ずに働くケースも少なくありません。

我が国の憲法にも「勤労の権利」と「勤労の義務」が明記されているように、労働には社会的・精神的な意義があると考えられています。

つまり、人間が労働に求める価値とは、経済的な対価以外の部分にもあると言えるのです。喜びや充実感、プライドなど、人間性を発揮する機会でもあるということです。

単に高齢者の「労働力」を確保するのではなく、一人ひとりの人間性を尊重し、潜在能力を最大限に発揮できる社会を実現することです。

労働、すなわち働くことは、人間にとっての喜びではないのでしょうか?

労働寿命を延ばす前に、労働の本質についてもっと議論を深めることで、人生100年時代にふさわしい、より人間らしい労働のあり方を見出していく必要があると思います。

 

 

 

「労働と学習の対局は遊びである」という考え方があります。
労働と学習によって時間的に経済的に余裕ができること、これが本来の遊びです。
余裕があるから労働と学習以外のことができるのです。労働と学習と遊びは 同一 線上にあると言えるでしょう。これらの対極にあるのは怠惰です。
労働について議論することで、学習と遊びについての考え方も深まるに違いありません。